人は不幸には耐えられるが、不公平には耐えられない生き物だそうです。正にそのとおりだと思います。人は 皆と同じ不幸な環境にいるときには、耐えるどころか、一致団結して力を合わせて、それを切り抜けようとする気高い存在です。一方で、その中で、誰かがどんなに小さいなことでも「えこひいき」をされると、えこひいきをしたものだけでなく、いい目にあったものに対しても獰猛に攻撃をするのです。えこひいきをしたものが権力者であり、非難することが憚られる場合には、えこひいきをされた者が一身に攻撃に晒されることになります。例え、いい目にあったものに一切の非がなくとも、あらぬことを言われ、呪いの言葉を浴びせられるのです。

日常でも本当によく見られる光景です。

●会社における昇進(日本で会社に勤めるものの多くは皆自分を不幸だと思って耐えているので、昇進したものは実力があったとしても妬まれることになっています)

●飲食店で自分より後に出されたオーダの料理の方が先に出されること(昔、バイト先の喫茶店でマスターに「絶対にオーダの順番を守れ」と教わりました。よい教えでありました)

●高速道路で渋滞を尻目に路肩を走っていく車(どんな理由があったにせよ)

●コロナ対策での自分がもらえない給付金  などなど

いくらでも例をあげることができます。 人のことはまったく言えず、私もまた、不幸における不公平を目の当たりにすると、ことの大小を問わず、忍耐とか暖かい心がぷつんと切れてしまいガチです。人間は難しいものです。

先に書きましたが、この国では多くの人が会社に勤めている間は「会社が嫌い」です。会社生活とは辛い修行のようなもので、それを皆で耐えているというのが基本的な構図になっています。早期退職をした今は、なぜか、「会社は楽しい場所だったよね」などと言ったりしますが、私も会社にいるときはそうもいかなかったのです。会社は生活の中心で、本人も家族も「仕事だからさ..」という大義名文にはひれ伏すしかなく、会社の価値観が何事にも優先されたのです。そして、 いよいよ退職が近付いたある日に、 辛く長く多くのものを犠牲にした修行の先には何もないことに気が付くという仕掛けになっています。そのときは、少し呆然としますが、それもまた、「皆と同じ不幸」の様に思えるので、受け入れるのです。

さて、会社という不幸な修行の場から立ち去った私ではありますが、新しい生活において、また勝手に不幸を見つけだして、更にはそこに不公平まで見つけては心を乱すのです。まったく困ったものです。

「公平に不幸な社会が最も幸せである」 こんな格言を思いつきました。一体幸せなのやら、不幸なのやら。

***
ブログランキングに参加しています。よろしければポチっとお願いします。やる気がでます。