最近、逆張りというか、定説となっていることに疑問を呈するような内容の記事や話をよく耳にします。例えば「努力しても報われる訳ではない」。きっと、この考えの本意は「だったら努力するのはやーめた」ではなく、「失敗しても凹んだり、やる気を無くさないでね」というものなのだと思います。でも、最初っから「報われない」ことを考えるのも何だかな。
一方で「努力できる才能」なんて言葉も、ここしばらくの間、ずっと言われている様に思います。これ、誰が最初に言い出したのかはもはや不明と思われますが、元ヤンキースの松井秀喜選手の座右の銘としてよく知られています。
生まれ持った特別な才能は無いけれど、自分は何事かを成すために「努力することができるという才能」を持っていた、そんな使われ方をするフレーズ。素直にいい言葉だなと思います。けれど、巷ではそれに「いちゃもん」をつける人が沢山いて、努力できるのは才能ではなく、その人を取り巻く環境にこそ左右されるだろ!なんて考えもあったりします。
まぁ、議論の行く末はどうでもよいのですが、「努力できる」のが才能だとすると、それは枯渇することもあると思うのです。画家が急に絵を書けなくなったり、作曲家に曲を作るインスピレーションが天から舞い降りてこなくなったり。
それで、私に「努力できる才能」が若干なりともあったとするならば、加齢と共に随分とそれが枯渇してしまったなと思うのです。それまでも大してこの才能を発揮してことはなかったのですが、長年勤めた会社を辞めて、再就職、老後の仕事をする様になったこの2年間、思い返せば、何か新しい力、能力、知識など、まったく得ることができませんでした。仕事の面だけでなく、趣味や娯楽についても同様に。
あんまり自分をいじめるのも何なので、敢て自分に言い訳をするならば、それくらい「未経験の業界で、未経験の仕事を、誰一人自分を知らない中で始める」というのは厄介だった訳です。それまで積み上げてきたと思っていた「人生経験」だの「仕事ノウハウ」なんてものは、結局は「会社ノウハウ」に過ぎなかったと思い知らされたのです。
それでも、「努力」をする、やる気を見せるくらいのことはできたハズなのに、それができなかったのが「努力できる才能」の枯渇なのでしょう。まぁ、自分の怠惰な心根はそのままに、「努力できる才能」の枯渇が原因だということにしてしまいましょう。少し気が楽になりました。
とは言っても、これから1回休み(退職、療養)で、それからまた、「次」を始めなければなりません。「努力できる才能」が無くなっちゃたんだよね、なんて言っていられません。
再就職後の2年間、たった2年間分ですけれど、仕事を通じて得た「経験」だけはあって、これをご破算にしてしまうのも勿体ない。勿論、その前にいた業界の35年も同じ。せっかくだから、しばらくの無職期間(そうだ、充電期間と呼ぼう!)の先にある仕事選び、仕事作りはこういった土台の上で考えてみたいと思う訳です。
規則正しい生活をして、せっせと体を動かして、健康によいとされる食べ物を何でも食べて、楽しいこと、したいことをする。「努力できる才能」が再び蘇ってくることに期待です。
ついに関東甲信地方が梅雨明けになりました。これから本格的な夏が始まります。どんなに暑い日があってもよいのですが、時折はきちんと雨がふって欲しいものです。昨日の夕刻以降に降った「まとまった雨」のおかげで、随分と今日(7/22)は過ごしやすく、一日の大半をエアコンも点けずに過ごしました。雨は天からの恵み、正にその通りでした。