大事なのは、「幸運を手に入れること」なのか、それとも「災難から逃れること」なのか。若い頃ならいざ知らず、61歳にもなると圧倒的に「災難から逃れること」に軍配が上がります。それに、幸運は偶然にしか手に入りませんが、災難はどこにでもあって、そんなものを全部まともに引き受けていてはたまったものじゃありません。

そうは言っても、幸運や奇跡には、今までも何度となく恵まれてきました。他人に言わせれば「そんなことで幸せなの?随分安い人生だね」程度のことばかりですけどね。家族や友人に恵まれ、基本としては「したい様に生きてきた」のですから、これに勝る幸運はありません。何だか「日々に感謝」みたいな話で、少し気持ち悪い感じ…

一方で「本当の災難」というのには、幸運にも?一度も出会ったことはありません。所謂、天災やら、事故・犯罪に巻き込まれるといった類のことです。東日本大震災の日の夜に、10時間程掛けて会社から歩いて帰宅したことがありましたが、それにしても本当に被災された方々からみたらピクニック程度の話ですから。

一方で日々当たり前に転がっている「災難」の中には、これまでの人生の経験や知恵を使って「逃れることができる」ものも多数ある様に思うのです。

そもそも「災難」というのは「不意に起こる不幸」です。例えば、『電車に乗ったら、事故があって、途中で動かなくなった』、これは、逃れることができない「災難」です。このことを恐れて「電車に乗らない」という訳にはいきませんしね。諦めて目を瞑っているしかありません。

例えば、『急いでいるのに銀行のATMで長蛇の列に巻き込まれ、30分も並んでしまった』、これは「混んでいる時間」を知っていて、それを避ければ何とでもなる「災難」です。

こういった世の中の事象みたいなものによる「災難」だけではなく、社会で暮らす中で起きうる「災難」というのもあります。言わずもがな、人に関する「災難」です。シンプルに言ってしまえば、「イヤな人」「苦手な人」に出会ってしまう、ということです。

どんな集まりだろうと必ず「イヤな人」というか、「波長の合わない人」というのはいる訳で、これはもう一生続きます。けれど、この「災難」に関しても、人は「逃れること」を経験から学びます。人生いろいろ、人それぞれなんでしょうけれど、私が学んだことを少々書いてみます。

①うまい話に乗らない
「うまい話」に乗って入り込んだ世界には、不思議なことに必ず?病んでしまった人たちがいて、一部で徒党を組み、他者を憎むことで結束を図っている、なんてことが起きていたります。(私の経験では、ほぼ100%!)

本当は「うまい話」なんてものはないので、そこにいる人たちも或る意味うまい話の「犠牲者」みたいなものなんですけどね。けれど、その「犠牲者」の犠牲者に自分がなってしまうのは御免です。だから、「うまい話」にはご用心。…すぐ乗っちゃうんですよね。

②あまりに自分と異質な人や集団に近寄らない
結局、どこまで行っても「理解不能」なんですよ、こういう人たちって。向こうも向こうで同じことを考えているので、無理に分かり合おう!みたいなことを考えたりすると、結構に面倒なこと(災難)になったります。「ちょっと違うな…」とか「こんな人、初めてだよ」なんてときには迂闊に近寄らないに限ります。

③「自分の方がエライ」と思っている人には近寄らない
実はこれが「人に関する災難」を避けるには一番大切なことだと、私は思っています。何をもって「エライ」のかよく分かりませんが、こういう変なものをこちらに対して抱いている人には何も「打つ手」がありません。そんな気配を感じたら、ひたすらに逃げるのみです。

度々エントリの中で書いているのですが、「人に苦しむこと」こそが、誰にとっても最大の災難だと私は思っています。いろいろと痛い目にあって、最近ようやく少しは、この手の災難を避けられる様になった気がしています。それでも、時折、変なものを踏んじゃいますけどね。

いよいよGWも終わりです。明日(5/7)はただの日曜日。世の中全体に漲っていた「ザワザワ感」がさーっと引いていく様な気がします。この寂しい感じがいいんですよね。それにしても、昨日は庭仕事を頑張り過ぎました。いっぱい耕して、たくさん種を蒔きました。芽が出るのが待ち遠しいなぁ。

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