働くということは「お題を解くこと」だと思うのです。仕事内容は何にせよ、お題を解いてナンボです。スーパーの売れ筋商品を見つけるというお題、患者さんの悩みを解決するというお題、ビル設備の不具合を復旧させるというお題、みんな沢山の「お題」を抱えて四苦八苦です。
「仕事は作るものだ」という話がありますが、本当に誰かの役に立つ仕事を切り出すことができる人など、ほとんどお目にかかれません。大体が「仕事のための仕事」、なまじ優秀な人がこれを熱心にやってしまうと、多くの忙しい人たちにこれにつき合わされて大迷惑です。
仕事に貴賤はありませんが、お題の面白さには人それぞれに「関心の有無」がある様に思います。また、同じ人であっても若い頃と年配になってからでは相当に違ってきます。神さまや会社によってアサインされた自分の仕事の「お題」に関心があって、それを解くことが苦にならない、これが最も幸せな働き方と思います。
さてさて、仕事をしなくなると、もしくは単なる労働力の時間売りの様な仕事だけをする様になると、皆、お題を失って右往左往してしまいます。思えば、「お題」は有難いものだったのです。けれど、なかなかに日々の暮らしの中には明確な「お題」は見つかりません。
まぁ、その中、何とか折り合いが付く訳ですが、毎日がそれなりに忙しい様に思っても「何も解いていない」ことに、何だか「手応えの無さ」を覚えます。それは「楽しみ」や「趣味」では埋められず、ましてや投資による「金儲け」とも違うものです。
かと言って、今更、どこかの会社に潜り込んで「お題」をもらうなんて、そんな気持ちにはなれません。それに60歳を過ぎた老人に、そんな都合のよい「お題」を用意している会社などある訳がないのです。逆に、そんな求人を見つけたら用心に越したことはありません。
という訳で、焦らずに自分が飽きずに続けられる「お題」を見つけてみたいと思うのです。自分の頭で考えて、自分で計画して、自分で実行して、自分で終わらせる。「お題」が見つからないと、その場限りのことに身をやつした「カニ歩き」の連続です。
何だか退職者生活も板についてきて、随分と贅沢なことを考える様になりました。これは進歩と言うべきか、はたまた「暇人」と言うべきか。手始めに「ゴミ拾い」をしながらの散歩あたりから始めてみますか。何か興味のある「お題」も一緒に拾えるかも知れません。