ここ数年、「あれ、どこにあったかな」と行方不明のモノが大量に発生しています。ケチな私が捨てる訳がないし、家の中のどこかにはあるんでしょうけれど、いくら探しても見つかりません。どうしても必要なものであれば、新たに買うしかないのですが、何とも悔しい。
それで、対策として、すべての引き出しの表の部分に「ここに入っているモノ」を書いた小さなメモをペタペタと貼り付けているのです。美観も何もあったものではありませんが、取り敢えずは「モノ探し」の時間が大幅に削減されました。
さて、私も何度となく「断捨離しなくちゃ」と思い、それと同じだけ「モノに囲まれて暮らすのも悪くない」という揺り返しを繰り返しています。その理由は「ケチ」と「打算」と「モノへの憐み」(捨てると可哀想と思ってしまう)だったりします。
「ケチ」の方は、「まだ使える」「いつか使う日がくる」という思いに加え、「高価だった」というセコイ理由が心に居座っています。こんな強力なモッタイナイのトリオがいるので、正直、ほとんど「断捨離」するものはないのです。
それでも、さすがに年寄りになって、残り時間も短くなってきたことから、「いつか使う日がくる」フィルターを強化した断捨離をしてもいいなかと思っています。それは、フィルターを「いつか」ではなく「これから5年の間に」に置き換えるということです。
今まで何十年も使わずにいたものが「これからの5年」でも使うとは思えないので、貯め込んできたものの大半は捨ててしまうことができそうです。けれど、「ケチ」はクリアすることができたとしても、最期に「打算」の壁も突破しなければなりません。
ここでの「打算」とは「所詮、これを捨てたところで、大してスペースが広くなる訳ではない」というもので、だったら、捨てなくてもいいんじゃない?となってしまい、いつも捨てられなくなってしまうのです。
これを「塵も積もれば山となる」として、少量でも「これから5年で使わないモノ」を捨てるというのが大事なのでしょう。もう「髙かったもの」でも何でも捨てちゃう。もしくはせっせとメルカリに出しちゃう。
けどね、結局は捨てないのです。何故ならば「捨てるなら、いつでもできる」からです。「覆水盆に返らず」で、一度失ったものは二度と元には戻りませんからね。例えば、小学校の頃に使った「縦笛」と「ハーモニカ」と「そろばん」、私ったらまだそんなものを大事に持っているのです。
勿論、「縦笛」も「ハーモニカ」も「そろばん」も、これから5年どころか絶対に一生使うことはありません。この場で誓ってもいい。けれど、引き出しの奥深くにしまい込んである「モノ」が時折発掘されて、その実体を見て、手に取ると、あの頃の空気や音みたいなものが私の周囲に立ち昇ってくるのです。私以外には何の価値もないものが、モノと一緒にしまわれているのです。
とは言っても、いよいよ身体が動かなくなって、施設かどこかにお世話になるなんて日が近付いて来たら、「ケチ」も「打算」も「モノへの憐みもなく」、スパッと何もかもを捨てないといけないのでしょうね。
そのときは「ゆっくりゆっくり」、何ヶ月も掛けて、モノとの最後のお別れとしたいと思うのです。「捨てるなら、いつでもできる」、そういうことです。
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私が住む東京都下の昨年の新築マンションの平均価格は「5,427万円」だったそうです。(東京23区は1億1,483万円!) すげーな。こんなに高くても需要があって、どんどん売れる。
不動産屋さんに「皆さん65歳まで働くのが当たり前です、これからは70歳まで定年が延びて、ずっと安定した収入が続きますよ。ドーンと買っちゃいましょう、70歳まで住宅ローンを組んで」なんて言われるのかな。みんな未来を信じているんですね、誰だってそれしかないしね。