愛猫が高所から落下してしまい、骨折はしていない様子ですが、ときおり激しい痛みが来るのか「ミー、ミー」と悲し気な鳴き声を発します。数年前にも同じことをして、そのときも1週間程度は同じ症状が続きました。今回も大事に至らなければよいのですが。もう若くないんだから。
以前のエントリでも書きましたが、高齢者の再就職は「長続きしない」のが普通と言われています。幾らでも分析をするネタが転がっていて、つまるところ諸説紛々です。個人的な理由に起因することも多く、一概に断じることができない訳です。
若い世代の人や、エラい人がしたり顔で何を言っても、そこに真実はありません。当たり前ですが、すべてのことは当事者でなければ分からないのです。そこでバリバリの当事者である「私」からレポートをしてみます。
せっかちに結論を出すならば「もう昔みたいにはできない」に最後は尽きるのではないでしょうか。高齢の再就職者に「面白い仕事」や「やりがいのある仕事」なんてものがあてがわれる訳もなく、そんなことは当事者だって百も承知です。更に報酬だって、かつてからは比べ物にならないくらい少ない。そんなことだって勿論理解している訳です。
それに仕事なんてものは昔だって大体が「退屈」で、環境や周囲の人に恵まれるなんてことも滅多になかったハズです。けれど、グチグチ言いながらも、それを続けることができた「コアの様なもの」が昔は自分の中にあったと思うのです。
それは、「まだまだ人生は続くのだ」という静かな諦観/覚悟であったり、「今に見ておれ!」という手つかずの未来への期待だったのかも知れません。きっと、いろんな思いが渦巻いて「無我夢中」を生んでいたに違いありません。だって、あっという間に時間は過ぎましたからね。
それが人生の季節が巡って、いよいよ「再就職」だ「再雇用」だ「悠々自適なリタイア生活」だなんて事態に至ると、この自分の中にあった「コアの様なもの」がすっかり失われていることに気付かされるのです。何も昔を懐かしんだり、今を嘆いているのでもありません。ただ「もう昔みたいにはできない」のです。自営で頑張っている方々すると「ふざんけんなよ」ということかも知れませんけれど。
そして「もう昔みたいにはできない自分」を自覚せずに不慣れな仕事、見知らぬ環境で頑張ってしまう、そりゃ無理ですって。(別に今の仕事を放り出さなくてもいいけれど)取り敢えずいったん仕切り直しですかね。
人それぞれに事情があって、誰にも代わってもらう訳にはいきません。そして、「もう昔みたいにはできない」けれど、それでも生は続きます。頑張り過ぎず、そんな自分と向き合って、うまく「脱力」して過ごす。さすが、当事者のレポートでしょ。