若い人たち以上に、「こんなにイキイキしてますよ」とか「毎日遊んでいるよ」とかをアピールする年寄りばかりで疲れてしまいます。年寄りなんて、しょぼくれて、小さくなっているぐらいじゃないと可愛げないと思うんですけどね。暴論と思いますが、年寄りの私が言うのですから、許してね。

久し振りに昔の知人、友人と会うと、つい「景気のいい話」をしてしまうことがあります。そう、如何に自分が年寄りなりに「リア充」を満喫しているかを自慢し合うという「アレ」です。そういうの、流石に止めたい気分です。

だから「最近、どうよ」なんて聞かれたら、「全然ダメだよ、朝から晩まで働いてさ。その割に大して贅沢もできないし。それに、身体の節々が痛くて、車も大古車のままで、何にも際立ってウレシイことなんかないよ」なんて、ニコニコと笑いながら、さも当たり前の様に悲惨な現状を話しちゃう。それが真実なので、悪びれず、無理なく、淀みなく、途切れなく、スラスラと。

それで周りがどんよりした空気になっても、全然OK。「リア充」じゃない自分を認めて、それでもヘラヘラと生きているのが、事実であり、すべてですからね。そもそも「年寄り」なんてものは、「充実していない」のが当たり前なんですから。

随分前のエントリで、今の世の中、みんな「普通(を得られず)に苦しんでいる」といったことを書いたことがあります。きっと今も若い人たちは「普通」を目指して、毎日大変な努力をしているのでしょう。どんどん「普通」のレベルも上がっていきますしね。大変です。

それで、年寄りは更に贅沢なもの=「リアルな世界での充実した生活」を過ごすのに、一所懸命になっているのかも知れません。というか、自分に暗示をかけているのかも知れません。「自分は充実した生活を送っているよ」ってね。「終わりよければ、すべてよし」ですから。

でもね、人それぞれで、私は「充実している」よりも「慌ただしく毎日が光の速度で過ぎていく」方が自分にとって、好ましく感じたりするのです。それで、気が付けば「今わの際」になっていて、無念すら思いつかない様な「最期」がいいなぁなどと思ったりしているのです。

とにかく、得体の知れない何かに追い立てられるが如くの「リア充」合戦から降りてしまうと、毎日が充実してくる様な気がします。アレ?

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図書館から借りていた本がどれも「期待外れ」で、ついに勤め先からの帰りに読むものが無くなってしまいました。ここしばらく「当り」を引けていません。お金も払わずに読んでいるくせに、何をエラそうに…

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