つい10年程前までは、誰もが「普通ではないこと」「個性的なこと」を探して、苦しんでいた様に思うのです。みんな競っては、人とはちがうことをして、ちがうことを言って、ちがった服を着て、ユニークな人を装って… けれど、それは少しも個性的ではなく、ただ「変な人」「おかしな人」だった様に思い出すのです。何だか「恥ずかしい」感じです。

そして時は移り、今、みんな、特に若い人たちは「普通」に苦しんでいる様に思います。マスメディア、ネットメディア、SNS、どこもかしこも、これでもかと「普通」を押し付けてきます。SNSでフォロワーがxx人いるのが「普通」、楽しい毎日を過ごしているのが「普通」、自分の年代では年収XX万円が「普通」、環境問題やLGBTに関心を持つのが「普通」、家族でキャンプに行くのが「普通」、皆が「普通」であることを当たり前として情報が発信され、社会が回っている様に思います。本当は格差が広がっていて、「普通」のフリなどしている場合ではない人であっても、「普通」にはひれ伏すのです。格差は既に階級/身分として固定され始めていることをみんな感づいているにも関わらずです。

「流行」とは違って、ここには意地悪な同調圧力が漲っています。故にみんな懸命に(自衛のために)「普通」になろうとし、ここから外れてしまっている人たちは強い疎外感を覚えます。社会では「多様性」が流行りの言葉ですが、今、この国の空気はこれとはまったく逆のことが加速している様に思えます。皮肉にも「多様性」というキーワードを掲げなければならないという「普通」が企業や個人の活動をびくつかせている様にも見えます。

早期退職をして、ここしばらくの間に社会との付き合い方を随分と変えてしまった私にとっては、「普通」であることは重要ではなくなってしまいました。他人の生き方に興味や関心を持っても「そうなりたい」「うらやましい」とは思いませんし、薄い付き合いだった仲間らしきものは一掃してしまいましたので「仲間外れ」の心配もなく、最早他人に比べて年収が云々など考えることもありません。何しろ「必要なだけ働く」だけなのですから。生活において「普通」を考えないと随分楽に生きられることが分かりました。

「普通」を考えなくなると、お金の使い方が随分と変わってきます。
先ず、洋服代、靴代がほとんど掛かりません。上質のシャツは早期退職前のものが置場に困る程ありますし、ズボンも3本あれば十分です。靴にいたっては、ビジネスシューズは早期退職後2回だけしか履いていません。下駄箱の邪魔なので、2足を残して、捨ててしまいました。適当なズック靴とスニーカーがそれぞれ1足だけあるだけです。夏はサンダルですしね。昔は何であんなにお金が掛かったのでしょう。
そして、交際費です。飲み会やら各種の会社でのイベント、今思えば、行きたいもの以外は断ってしまえばよかったのです。当時、こういうイベントに出席を強要していた人たち(含:私)は大いに反省し、「いい思い出だった」などと言わないこと! みんな今でも怒ってますから。

それでは、生活費ががっつりと少なくなるのか? ということなのですが、実は我家ではそれほどには下がらないのです。確かに、服やら靴やら、交際費やらは大幅に減ったのですが、「私がほぼ毎日いるようになった」というコストが発生したのです。しかも、よく言うじゃないですか、「一度上げてしまうと、生活水準はなかなかに下げられない」って。そのとおりなのです。「おいしい食事」や「家にいる時間の快適さ」は、とても犠牲にはできないのです。ここを無理して我慢してしまうと何のために早期退職を自ら選んだのかが分かりません。不機嫌に困窮生活を過ごすために早期退職をした訳ではないのです。

さて、「自由に生きて、必要なだけ働く」の最初の1年間の収支が楽しみ?です。持ち出しが「想定内」に収まっています様に。そうでないと、「自由に生きて、必要なだけハードに働く」とブログのタイトルを変えねばならなくなってしまいます。

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