もう30年程も前のウイスキーのCMで「何も足さない、何も引かない」というコピーがありました。最近、このコピーが時折頭をよぎるのです。何だか、しばらくは「それでいいや」という感じがしています。きっと「何も足せない、引くばかり」というのが実際なのですが。
昨日、今年初めて、トウモロコシの収穫をしました。かなり窮屈な間隔で種を蒔いて育てたこと、肥料が不足していたことなどの悪条件にも関わらず、立派に育ってくれました。少し、小ぶりだけどね。
それで、夕飯に茹でてカミさんと二人で食べたのですが、これが美味しいの何のって… 少しバイアスが掛かっていますが、それを差し引いても最高の味でした。甘くて、みずみずしくて。まだ、30本以上残っているので、「旬」の間にせっせと味わうことにします。
それに、まさか、あまり出来のよくないトウモロコシに励まされるとのは思ってもみませんでした。「やればできるじゃないですか」「また来年もお願いしますね」、そんな声が聞こえてきたのです。(何か病んでいる訳ではありません) 4月に地面を耕して、連休の頃に種をまいて、いろいろとお世話をしてきたのです。栽培にあたっては間違ったことを沢山していて、努力も足りなかったに違いありません。それでも種は芽吹き、育ち、花をつけ、結実してくれる。そんな奇跡を見守ることができただけで感謝です。
森鴎外に、教科書なんかにも載っていた(?)「杯」という短編があります。温泉地の水飲み場で7人の女の子たちがキャーキャーと騒ぎながら銀の立派な「杯」で水を飲んでいる。そこに少し年上で日本人とは風貌の異なる女の子がやってきて、陶器なのか幾分変わった「杯」で水を飲もうとする。先にいた女の子たちがその「杯」の色や形、大きさなを蔑み、自分たちが持つ立派な「杯」で水を飲むように差し出す。すると後から来た女の子は毅然として、「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます」とフランス語で答え、静かに自分の「杯」で水を飲む。こんな内容で、とても短い作品です。
結局、どんなに拙くても、どんなに粗末であっても、自分の「杯」で水を飲む人は美しく、自立をしている様に私は思うのです。そして「杯」とは、これまで生きてきた自分、今の自分の心持ち「そのもの」に違いありません。ムリして磨き立てるものでもなく、逆に恥じるものでもなく。
だから「何も足さない、何も引かない」。
このエントリでは、ただ単に、小さくて出来が悪いけれど「自分で育てたトウモロコシは美味しいなぁ」と書きたかっただけなのです。本当に美味しいんだから。