結局はあの出張がオレのキャリアで最高の仕事だったんだな。早期退職をし、モモタロウが職場を去る最後のとき、女性社員から小さな花束を手渡され、周囲の数人からパラパラと拍手が起きたときに彼はそんなことを考えたのです。

子供のころに父母が離婚してしまい、モモタロウは祖父母に育てられました。厳格で働きものだったおじいさんと、やさしくて美味しい料理をいつも作ってくれたおばあさんに可愛がられ、モモタロウはすくすくと育ちました。

山深い地方にある高校を卒業すると、モモタロウは都会にある名門国立大学の法学部に入学しました。彼には夢がありました。もっと広い世界を見てみたい、いろいろな国に行き、その話をおじいさんとおばあさんに聞かせてあげたい。モモタロウは一所懸命勉強し、大学を卒業後、大手の商社に就職をしました。

入社したモモタロウは朝から晩までモーレツに働きました。まだコンプライアンス、ワーク・ライフ・バランスなどという言葉もない時代のことでした。

そして、モモタロウが30歳になってしばらくした頃、大きな問題が取引において発生しました。彼が担当する鉄鉱石の輸入ビジネスに外国企業が入り込み、市場を散々荒らし始めたのです。
客先でその外国企業の担当者とすれ違った同僚が言うことには「あいつらでかいんだよ、2mくらいあるんじゃないかな。それに腕なんか毛むくじゃらでさ。そうだよ、まるで鬼だよ、鬼」。モモタロウは何故か「鬼」という言葉に胸騒ぎを覚えます。
事業部長が言います。「よし、オーストラリアに行き、輸出元企業に鉄鉱石の取り扱いを当社だけに絞る様にお願いをして来い。そうだな、うちのエース、モモタロウ、お前に頼んだぞ」

モモタロウは急ぎ出張の準備をします。自分の会社との取引を増やすとどんなによいことがあるか、プレゼン資料を徹夜して仕上げていきます。
そして、社内から、3人のスペシャリストを選び、特別チームを組成します。卓越した英語力とコミュニケーション能力を持つ「雉山かおり」、データ分析に長けた「犬田よしお」、そして鉄鉱石に関する専門家で博士号を有する「猿丸たくろう」です。皆、新卒5年に満たない若者ばかりですが、頼りになる仲間です。

そして、オーストラリアの輸出元企業に到着し、先方の輸出担当役員との商談となったときです。先方から思いもよらぬ発言がされます。「フェアに行きたいんだよ、キミたち以外にも1社、日本での鉄鉱石ビジネスを拡大したい会社があるんだ。そこの話も聞きたい。悪いが明日の午後、もう一度出直してくれないか、午前中にもう1社のプレゼンを聞いておくから」
4人が会議室を出て、輸出元企業のロビーに戻るとそこに、モモタロウも取引先で見掛けたことのある外国企業の「鬼のような社員」がいたのでした。
「やはり、こいつらが相手か」モモタロウは闘志をたぎらせます。鬼もモモタロウに気付き、ニヤリと笑います。片言の日本語で「オテヤワラカニ」などと言っています。

翌日の夜、モモタロウたちの泊まったホテルのバーで「乾杯!」の声が響きます。そうです。モモタロウたちの提案が競合先に勝り、見事、輸出元企業との間で独占取引の契約を勝ち取ったのです。プレゼンは2時間に渡り、モモタロウと3人の仲間が死力を尽くして、自分の会社との取引を拡大することのメリットを説明したのです。
皆が上機嫌でグラスを重ねていると一人の大きな外国人がモモタロウたちの近くにやってきます。あの鬼です。彼もそのホテルに泊まっていたのでした。鬼はニコニコして、モモタロウに「オメデトウ」と言います。そして、お互いの健闘を称え合うのでした。鬼はアーサーといい、イングランドの出身でした。

モモタロウは会社に凱旋し、一時期は役員に一番近い男とまで呼ばれました。しかし、彼はあるときに自らそのレースから降りてしまいます。おじいさんとおばあさんの体調が悪くなったのです。彼は会社の制度を使い、2年間休職をし、家族を都会に残して、おじいさんとおばあさんの暮らす山奥の家でふたりの介護をしていたのです。
勿論、介護施設に入ってもらうこともできましたが、二人の「最後は山で死にたい」という希望を叶えてあげたかったのです。既に余命が僅かだったおじいさんが死に、そしておじいさんを追いかける様にしておばあさんも死んでしまいました。
二人の葬儀が終わるとモモタロウは再び都会に戻っていきました。

モモタロウの2年間の不在の間に、彼を応援してくれていた上司は子会社に出向し、ライバルたちは多くの成功を成し遂げ、更には組織も再編成され、もはやモモタロウが戻る場所はありませんでした。

そして、50歳を過ぎたある日、いろいろな部署を転々としていたモモタロウは「早期退職」をすることに決めます。特にその後は決めていませんでした。けれど、きっと何とかなるのです。
家族にそれを伝え、笑顔でお疲れさまと言われます。そして、その日の夜、パソコンのテレビ会議システムで、今はイングランドに戻り会社を経営していたアーサーに退職のことを話します。
アーサーとはあの日以来、何故か馬が合い、互いに行き来をしたり、こうしてテレビ会議で時々はお喋りをしていたのです。「そうか、長いこと、よくガンバッタナ」アーサーの言葉にモモタロウは涙が止まらなくなります。いろんな思いがこみ上げてきます。そして、モモタロウの生き様を知っているアーサーも泣いています。鬼の目にも涙です。
そして、アーサーから思わぬ提案がされます。「モモタロウ、オレの会社が日本に事務所を開くんダヨ。そこでお前、支社長をやってクレナイカ」。

小さな花束と僅かな私物を入れた鞄を持ち、モモタロウがオフィスから出ていきます。よいことも、辛いことも、いろんなことがあった会社です。
モモタロウを載せたエレベータが1階につくと、ロビーには3人の懐かしい顔が待っていました。雉山、犬田、猿丸です。
3人はあの出張以来順調に実績を積み、今ではそれぞれが大きな組織を率いています。3人は言います。「モモタロウさん、あの出張で私たちは仕事の素晴らしさを学んだのです。ありがとうございました」

モモタロウは3人と順々に握手をし、「こちらこそありがとう、あれは楽しかったな」と感謝を伝えます。そして、お別れの言葉を告げるのです。

「お互いによい人生を」

おしまい


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