それはうれしいのか、うれしくないのか。突然に、週末のお楽しみが無くなってしまいました。勿論、ワールドシリーズのことです。今日ばかりはドジャースファンも、ヤンキーズを密かに応援していたと思いますけどね。
でも、長いシーズンをずっと楽しませてもらいました。選手は勿論のこと、MLBに関わるすべての人たちに感謝です。また、来年、待ってるよ、みんな元気に戻ってきてね。
長い間生きていると、当然ながらいろいろなところに行って、いろいろな人にあって、いろいろな目にあって、いろいろな記憶が頭に刻まれています。そんな「記憶」が、突然に頭に浮かんできます。
何をしていても、その瞬間のことに想起される記憶がふっと私に訪れます。まるで、深海から気泡がゆらゆらと海面に向かう様に。まるで、天上からゆっくりと鳥の羽根が舞い降りて来る様に。それは何の前兆もなく、突然に。
その記憶というのは、ほとんどが思い出すのが辛いものが多いのです。辛いといっても「嫌な思い出」ではありません。昔、嫌だなと思ったことなど、62歳にもなるとキレイさっぱり忘れてしまって、「忘れたことすら忘れて」います。
それで、「思い出すのが辛い」というのは、「もっとよくしてあげられたのに」というものばかりです。何か美味しいものを食べていると、こんな美味しいものを今は亡き父母に食べさせてあげたかったと思うのです。
そして、母が工夫をして一所懸命に用意してくれた食事のことを思い出します。子供の頃の私は、きちんと母に「おいしかったよ、ごちそうさま」と言えなかったことを悔いるのです。
家庭菜園で土をほじくり返していると、耕し方やら肥料の施し方やらを教えてくれた父のことを思い出します。何も用事など無くとも、もっと時間を見つけて、いろいろな話をしておけばよかったと悔いるのです。
父母だけでなく、友人や、子供の頃から繰り返し訪れてくれた動物たちのことも、何かにつけて、その記憶が頭をよぎります。そして、楽しかった思い出が3割で、残りの7割は「ひどいことをしてしまったな」「何もしてあげられなかったな」という胸の奥が鈍く痛むものなのです。
けれど、「思い出すのが辛い」ことでも、それは、私にとって大事な人たちのことなのですから、それはきっと幸せなことに違いありません。明日から11月になります。11月は父母の命日がある月です。手を抜いて、それぞれの命日の丁度中間辺りの日に、墓参りに行くのが毎年の常となっています。今年はいつ行くことにしましょうか。
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また、どうにも「甘栗」が食べたくなってきました。しかも皮付きのものが食べたいのです。味は勿論のこと、あの手間が掛かるプロセスが楽しいんですよね。甘栗のお店がいつ、どこで営業しているか、そんな情報ってありませんかね。まぁ、偶然に目にする程度が丁度いいんですけれど。