少子高齢化と言いますが、「少子化」と「高齢化」はまったく別のことです。このエントリは「高齢化」すら飛び越えて、ひとり一人に神さまが用意してくれている「寿命」、そして残された「余命」について、中高年である「あなたと私」の不確実な未来を考えてみます。

先ず、私たちの現在状況を確認しなければなりません。
平均寿命に関して、20年前、現在、20年後の予想、この3つのデータを並べてみます。
※20年前(2000年)、現在(2020年:令和2年)、20年後(2040年)
【平均寿命:男性(世界第2位)】20年前:77.72歳/現在:81.64歳/20年後:83.27歳
【平均寿命:女性(世界第1位)】20年前:84.6歳/現在:87.45歳/20年後:89.63歳

実はこのデータだと、誰にとっても「?」となる訳です。それは、「自分が幾つまで生きるのか」が知りたいのに「わかりませーん」ということになるからです。厚生労働省、そのあたりの抜かりはなく、「平均余命」というデータを教えてくれています。
【平均余命:男性】50歳:33.12年/55歳:28.58年/60歳:24.21年
【平均余命:女性】50歳:38.78年/55歳:34.09年/60歳:29.46年
ねっ、スッキリしたでしょ。そして、自分に残された時間の短さに驚いたでしょ。でしょでしょ。
※厚生労働省 令和2年簡易生命表

皆さんもよくご存知のとおりに、ここしばらくの間、平均寿命はどんどん延びていて、20年前に比べて、男性で約4歳、女性で約3歳も私たちは長生きをします。神さまがくれたGIFTです。これをどう使うかは私たちに委ねられています。

それで気になるのは「健康寿命」です。せっかく長生きしても、ベッドで寝たきりとなり、家族に面倒を掛けたり、病院や施設でただお迎えの日を待つというのでは辛すぎます。これ、中高年にとって、とてつもない恐怖ですよね。まぁ、家族からすると、例え寝たきりであっても生きていて欲しいと思うのかもしれませんが。
【平均健康寿命】男性:72.68歳/女性:75.38歳
※出典:厚生労働省 健康寿命の令和元年値について

健康寿命って本当に短いですよね。「70歳まで働け!」とお国に言われる未来において、そのとおりに70歳まで働いた後、3年足らずで健康寿命が尽きてしまうのです。

こんなことを知ってしまうと、年金受給開始後(65歳~)も余裕ある暮らしを送るために働き続けるのか、つつましい暮らしをしても元気に過ごせる時間を手に入れるのか、こんな困った選択を迫られることになるのです。まぁ、何も考えないよりはマシですが。

私は65歳になったときに真剣に考えることにしています。判断材料は、①心身の健康状態 ②家族の意向 ③保有資産状況、そして最後に私自身が「働いていたいか」ということになるかと思います。みんな、同じですよね。

ちなみに、人類は120歳くらいまでは生きることができるそうで、これまでの人類の最高齢記録はスイスの女性で122歳だったそうです。家族も友人もみんないない世界、どんなことを思っていたのでしょうかね。

さて、「寿命を決定づけるものは何か」ですが、大別するに、家系/遺伝、生活習慣、医療技術が考えらえると思います。えっ、神さまが寿命を決めているんじゃないの? という疑問はさておき。

<家系/遺伝による寿命決定>
確かに「長生きの家系」というのはあるものの、これが遺伝子に基づくものかはまだ、明らかになっていない様です。「長生きをする家系」というのが、その家の生活習慣に基づくものであった場合、結果として「健康に良い生活を習慣的に送っている家系は長生き」ということになる訳です。
私の家系(父方)はかなり長命で、大体、90歳程度まで生きるのですが、その背景、要因ともなると、生活習慣に紐付けられる様なことを私はさっぱり思い当たりません。しかも、ほぼ死ぬまで痴呆にならないし。そう考えると未発見の「遺伝子」?というのもあるのかとも思います。

<生活習慣による寿命決定>
「生活習慣と寿命」が語られる場合、多くの場合「生活習慣と健康寿命」ということになります。見直すべき項目としては、「運動」「栄養・食育」「たばこ」「アルコール」「睡眠」があげられています。
日本の場合、学校を卒業してから、退職するまでの間、ほぼこれらの項目に関して「推奨の逆」をひたすらに続けることになる訳です。今回のコロナ禍を転機として、働き方改革ならぬ「生活習慣改革」の実現を厚生労働省が声を大にして訴えています。このままじゃ、一人ひとりの健康もともかく、「不健康な老人」の大量発生で、国の社会保険制度が壊滅してしまいますからね。
ただ、「居住地域と寿命」を関連付けたデータからは、「長寿県」とされるものが存在していることが分かっています。滋賀県とか、長野県とかです。それじゃ、その県の県民が総じて「よい生活習慣で過ごしているか」というと、甚だ疑問です。長野県では「減塩運動」をしていると書いている記事もありますが、親戚が多数長野県にいる私の感覚では、そんなことを県民総出で行っている様には思えないのです。漬物は相変わらず塩辛いですしね。
強いて言えば、水であったり、空気であったり、気候であったりという個人や家に依拠しない要因が「長寿県」を生んでいるのかと思います。

<医療技術>
医療技術の進歩により、日本人の三大死因(がん、心疾患、脳血管疾患)による死亡率が低下し、寿命が延伸したことは喜ばしいことです。しかし、今、日本の病院における「死なせない医療」について、さまざまな議論がされています
恐らく回復する見込みのない高齢者に対して、延命を目的とした医療行為を続ける。生かすための技術や薬があるのですから、病院としてはそれを使わない訳にはいかない(最高裁判決でもあります)。結果として、患者と家族の苦しみが長く続く。長寿国家と誇る背景がそんな事情であるとしたら、本当に辛いことです。
私としては、家族はともかく、本人に治療の継続を判断させる「医学的延命処置を拒否する意思表明」といったものが、法的にきちんと認められないかなぁと思う訳です。だって、嫌だもの、病院のベッドで身動き一つできず、オムツをされて、痛い注射を何本もされて… それじゃ、それまでの人生のよい思い出も、感謝も、何もかもを失った後に最後のときを迎えることになってしまう。あまりに人の尊厳をないがしろにした話だと思うのです。

ピンピンコロリという言葉があります。「病気に苦しむことなく、元気に長生きし、最後は寝付かずにコロリと死ぬこと、または、そのように死のう」という標語。(wikipedeaより引用)
略してPPKというのだそうです。
1980年に長野県の医師が初めて使った言葉/概念とされていますが、去るもの/送るもの双方共に合意できる考え方ですよね。本音そのものである潔さと、妙な言葉の響きの良さから、今や日本中に浸透しています。

今の中高年にとっては「そう遠くない未来」に寿命が尽きる日がやってきます。
されど、明日という訳でもなさそうです。この世を去る日まで、まだ、あれこれとやりたいこともあるのです。そして、最後がどうかPPKであります様に。

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