多くの別れというのは「これが最後」なんて思いもせずに訪れるものです。逆に「もう会うこともないけれど、さようなら」なんて、一度も思ったり、言ったことがありません。まぁ、相手からすると私に対しては、そんな風に考えていたかも知れません。口惜しいから、ご無沙汰しているアイツやコイツにこれからメールしちゃいます。オレだよ、オレ、久し振りに会おうぜ。

「さようなら」は「左様ならば(さやうならば)」。「さやうならば(さようならば)」は「じゃ、そういうことで」。改めて考えるに「さようなら」は何だか軽やかでいい言葉ですよね。
そういえば、昔は「バイビー」などと言っていました。軽やかを通り越して、軽薄だよね、これ。「昔の彼との最後のデート、お別れの言葉はバイビーだったわ」なんて、余程さばけたオバサンじゃなきゃ他人に言えない思い出です。昔の彼、きっといい奴ですよ。

以前に別のエントリで、「寿命」について書いたのですが、このエントリでは、本当に本当の「さようなら」の瞬間である「人生の最期」をみんなどんな風に考えているのか、アンケート調査を読んでみます。「自分が思ったとおりにしか未来はならない」のですから、イメージトレーニングは大事かも知れません。でもイヤなイメトレです。

日本財団が「67歳~ 81歳の方(当事者)」と「35歳 ~59歳の高齢の親を持つ方(子世代)」に対して行った「人生の最期の迎え方に関する全国意識調査」を読んでいきます。
※以下のアンケート調査に関する出典:日本財団 人生の最期の迎え方に関する全国意識調査(2021.3)

Q:あなたは、死期が迫っているとわかったときに、人生の最期をどこで迎えたいですか
A:1位 自宅、2位 医療機関 ※回答は当事者(親世代)
Q:人生の最期を迎えるのに、絶対に避けたいのはどこですか
A:1位 子供の家、2位 介護施設 ※回答は当事者(親世代)

「絶対に避けたい」という設問は秀逸です。より強い思いはこちらの設問の回答から明らかになるのでしょう。「介護施設」では死にたくない、凄く分かります。周りに施設関係者が沢山いても、家族が沢山見舞いに来ていても、何だかひどく孤独で、まるで「死ぬ」ことが事務的に処理されていく様な気がします。(施設関係の方、ごめんなさい)
人生の最期、いろんなことが起きた我家の天井をみて、我家の匂いを嗅いで、意識を失っていけたら、幸せだな。

ちなみに別の設問にて「子世代」が「絶対に避けたい親の人生の最期の場所」は介護施設なのです。ならば、施設に入れずに子供が面倒見ればいいじゃないか…住宅事情や介護問題など解くのが難しい問題がそこには横たわっているのです。

Q:人生の最期、どちらの考え方に共感しますか ①積極的な治療を受けて、1分1秒でも長く生きることを優先させたい ②無理に治療をせずに、体を楽にさせることを優先させたい
A:圧倒的に②が大多数 ※回答は当事者(親世代)
Q:死期が迫り人生の最期をどこで迎えたいかを考える際に、あなたにとって重要だと思うことは何ですか。
A:1位 体や心の苦痛なく過ごせること、2位 家族等の負担にならないこと ※回答は当事者(親世代)

死期が迫ったことを悟ったら、延命はせずに「心が安らぐ」自分の家で最期を迎えたい。前の設問で「子供の家で死ぬことは絶対に避けたい」という回答は「面倒を掛けたくない」の明確な意思表示ですね。このあたり、子供や家族とまだ元気な中に、いろいろと話をしておくべきです。突然に倒れて、病院に担ぎ込まれて、自分の望んだ最期すら叶えられない。

私の父は体の調子が悪くなって、真夏の暑い日に私が父を連れて病院に行き、そのまま入院となり、結局、自宅には戻れずに、秋の始まりの頃に最期を迎えてしまいました。一度、調子がよい日に「自宅に帰れる」ということになったのですが、その前日に発熱してしまい、それが取り止めになってしまいました。
そのとき、父がどんな思いだったのかを考えるといつも辛くなります。帰りたかっただろうなってね。今思えば、何があっても連れて帰ればよかったのです。

いろいろと人生の最期のイメトレなんかしても、結局はそうならないんでしょうね。けれど、何でもかんでも思い通り、計画どおりに進んだら、それはそれで退屈なのかも知れません。
それに「人生の最期をどうするか考える」というのは、とてつもなく幸せなことなんでしょう。長い人類の歴史において、その大半は「Sudden Death」だったのでしょうから。

それじゃ、バイビー。

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