「ここだけの話だけど…」「まだ決まっている訳ではないけど…」「約束はできないけれど…」なんて調子で始まって、何か「うれしい知らせ」をそれが現実になる前に知らされることがあります。
これ、私にとってはかなり危険な兆しなのです。これまでの人生で、そのことが本当に「うれしいこと」になったことは滅多にないのです。
つい先日もそんな話があったのですが、さすがに60歳にもなると、にっこりと笑って、「それでは期待していますね」と返事はしたものの、そこから先はそのことを考えるのを止めることにしました。
こういう話をする人には悪意はさらさらなく、私にとって「うれしい知らせ」を何とか早く教えてあげようと思ってのことなのですが、ここには意地悪な悪魔がいて、これを悉く「ご破算」にしてしまいます。言った本人は大して心にも留めていないので、その後で「あのときは無責任なこと言って、悪かったね」なんて言われたこともありません。まぁ、そんなものです。
考えてみれば、逆の立場で私が誰かに「ぬか喜び」させる様なことを話したことも一度ならずあるのです。毎度のことならが、今更ながらの「反省」です。
特に家族や自分の病気に関して、お医者さんに「楽観的な話」をされるとそれにすがってしまうところがあって、それが実現しないと本当にがっかりしてしまうことがあります。「病は気から」とも言いますし、勿論、お医者さんを責める気持ちはありませんけれど。
そんなこんなで、まだ起きていない「うれしい知らせ」を聞かされたときに、最近は、「その結果が明らかになるまではできるだけ考えない」ことにしているのです。思えば幸薄い、不幸な習慣で、まぁ、切ないおまじないみたいなものです。
自分の力、自分がやったことに関して「手応えがあった」場合は何とかそれが実現する様に盛大に期待をしたり、祈ったりしますが、誰かが決める「うれしい知らせ」には期待しない、そして乗らないのが心の平和によろしいようです。「うまい話には裏がある」とも言いますしね。でも、少し気になります。あれ、どうなったかなぁ…