庭の梨の木に小さな実が沢山ついています。レモンの木を飾り立てていた可愛らしい花は、ほとんどが散ってしまいました。しばらくしたら、ここにも小さな実がつくことでしょう。それから、さくらんぼの木(佐藤錦)に実っていた僅かばかりの果実は、いつの間にかなくなっていました。野鳥の皆さんへのささやかな贈り物です。庭の野菜につく青虫を随分と食べてくれている様ですし。

さて、「いろいろな経験し、ときには苦労をすることで人生が豊かになる」ことと「変化は無くとも、平穏に幸せな日々を過ごす」こと、どちらが好ましいのかという「答えの出ない問い」みたいなものがあります。誰でも転職、リセットなんてことを考えた際には自分に問い掛けるものです。

実際には転職や、生き方のリセットを考えている最中には、「これから自分が苦労をする」なんてことは考えていない訳です。だから、この問いは既に「踏み出してしまった人」に向けたもので、正しくは、「自分は決断したことで苦労をしているが、果たして、今も昔のままに暮らしていた方がよかったのだろうか」ということになります。そして、恐らく、このときに自分が出す答えは「昔のままに暮らしていた方がよかったなぁ」となりそうです。

更には「苦労している現在」の先で、ようやく落ち着いたタイミングになると、この問いはまた少し変わることになります。「いろいろと大変だったけれど、何とか一息つけたよ。どうだろう、昔のままに暮らしていた方がよかっただろうか」。果たして答えは?

これは「今の私」の状態ではありますが、秋に予定している手術のために、間もなく「何とか一息ついた」状態も終わってしまう身としては、何だかこれについて「考える」こと自体がどうでもよくなってしまっています。自分の判断が正しいか否かとか、苦労したとかしないとか、損をしたとかしないとか、運がいいとか悪いとか。「リセットボタン」は先週押してしまいましたからね。

全部ひっくるめて、「こんな風に過ごしてきたんだな」と思い返すのみで、今は妙に清々しい気分だったりします。「始まりの日の朝」みたいな感じですかね。

これから「どうなるのか」については、手術後から真剣に考えるとして、それまではいろいろと「片付け」と「急がない準備」をすることになります。まだ何ヶ月かは仕事を続けるので、今は「準備の準備」ということになりますが、それでも何だか今は、とても静かな気持ちがしています。ただ、ロングバケーション?の前で嬉しくなっているだけですかね…

それで、敢て「苦労と幸せ」の問いに答えるとするならば、「平穏で幸せなまま」でいた方がよいと私は思うのです。「もっと幸せになるためにする苦労」は幸せの一部です。そうではなく、期せずして苦しんでしまう様な目に遭うのであれば、「ただ幸せなまま」でいることがどれ程に素晴らしいことか。

未来は誰にも分かりませんし、分からないなりにも予測ができるのは「苦労した人」だけですからね。もう、十分に辛い目に遭っている。本当に選択、意思決定というのは難しいのです。今、手にしている幸せがあるならば、それを手放す手はありません。「大した変化はないけれど、幸せな日々を過ごしています」、これって最高ですよね。

間引いたチンゲン菜をベビーリーフとして美味しくいただいていましたが、それもそろそろ終了です。結構に大きくなってしまい、生でサラダに入れるのはムリな感じになってきました。固いし、すこし苦味もあるし。そもそも間引く必要がない程に苗の間隔も空いてきました。あとは成長したチンゲン菜の収穫を待つことにします。

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