三連休は初日が一番楽しくて、段々と追い詰められていき、最終日はひどく寂しくなります。今日(2/10)はまだ初日、天気もよかったし、だらだらと何もない一日を楽しみました。生き返るなぁ。
今が一番よい時期なのかも知れません。「今」というのは、長らくの現役後の「終わった人」ではあっても、まだまだ体は動く。日常生活や新しい仕事の日々を送るに際しては、それまでのマインドセットを変えることを無事終了した!という「今」です。
そうか、「自由」というのはこういうことを指すのだなと思ったりします。お金のドレイになっていると「お金が無ければ、自由って言ってもな…」なんて、トホホな気持ちになるのでしょうが、結局のところお金が幾らあっても「自由」は買えないので、「お金と自由は無関係」です。
先日のエントリで似た様なことを書きましたが、「自由」というのは、自分とは不可分な能力の先にある様に最近は思っています。「XXがしたい」と考えるときに、それを可能にするのはその人の持つ能力です。
例えば、ピアノを弾きたいとした場合、ピアノがある場所に行けば、誰だって「音を鳴らす」ことはできます。「これがしたかったんだぁ」ということであれば、それでOKですが、普通は「何か演奏らしきものをする=ピアノを弾く」ということになります。
そのときに、その自由(ピアノが弾きたいので、弾く)を可能ならしめるのは「自分に備わった演奏技術(能力)」だけです。大好きなあの曲を弾きたいけれど、技術が足りなくて弾けない(不自由)のであれば、ひたすら練習して技術(能力)を高めるしか方法はありません。
だから、私が考える自由、即ち「XXがしたい」を実現できること、実現できなくともそこに向かって歩むこと、心置きなくそれに専念できる「今」は正に幸せな時期なのでしょう。これが、後10年もすれば、加齢と病気で身体が思う様に動かせなくなったり、痛みに苦しめられたりして、「XXがしたい」どころではなくなってしまうかも知れません。この「黄金の10年」は、神さまからの贈り物です。
それで、そんな幸せな時期を、つまらないことに思い煩うことなく満喫するために、日々の「回避」行動が大切だなと改めて思っているのです。主には「人」に関して、イヤなことが起きそうな気配がしたら、僅かでもそんな匂いがしたら、すぐに回避してしまう。結局、人は「人」のことで苦しむのですから。
大事な時間を「不快」な感情に侵食されない様にするのが、「自由」でいるための基本のキ、一丁目一番地です。「見ざる、言わざる、聞かざる」を心掛け、そんなことすらできない状態に陥ったら、スタコラサッサとその場を去るのが妙手です。とにかく「サル」ですよ、これからは。
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種を蒔いて育てている猫草の「発芽した苗」の間に、何だか見慣れぬ子が顔を出したのです。見たところマメの仲間です。種の中に混じっていたのか、それとも土の方で眠っていたのか。何だかこの子の成長が楽しみになってきました。どうか愛猫にやられません様に。