今、大きな悩みを抱えています。トウモロコシを害虫から守るために私にできる最善のことは何なのかをずっと考えているのです。受粉を行った後に実を不織布の袋で一つづつを丁寧に包むのがよいのか、薬剤を散布するのがよいのか、実についた幼虫をこまめにピンセットで除去するのがよいのか。何でこんな住宅地の僅かな土地で育てているトウモロコシを虫たちは発見できるのでしょうか。本当に不思議です。見逃してくれたっていいじゃないの…
仕掛かったことを最後までやり通して、何よりも自分が納得できる様に、自らの手できちんと終わらせる。こんなことができたら、どんなにか晴々とした気持ちで「次」を始められることでしょう。思えば、何事につけ「きちんと終わらせた」という記憶がありません。そう、消しゴムの最期を看取ったこともなければ、アメリカの長大なテレビドラマを最終回まで見届けたこともないのです。いつも、いつの間にか「次」を始めてしまいます。
何とか「再就職」をして糊口をしのいでいる訳ですが、そんなに遠くない未来においては働くことも打ち止めということになります。このときに「きちんと終わらせる」ことができればいいなぁと漠然と考えています。ずっと、自分の気持ちが納得しないままに「中退」ばかりしてきたので、最後の最期はきちんと働くことから「卒業」をしたいと思っている訳です。
これは「働くことを打ち止めにする日」をどう過ごすかといった話ではなく、これからの残りの労働人生をどう生きるかということなのです。何日か前のエントリで「上手くやる必要はない」ので、辞めろと言われるその日までしぶとくやり続けることに決めたと書きました。この考え方はとても気に入っています。何よりもシンプルなことが気分を楽にさせてくれます。
これから幾つまで働くかはまだ分かりませんが、恐らく二つか三つの職場や仕事を渡り歩くことになるでしょう。その際に、今やっている仕事の内容を職場が変わっても「持ち運べる経験」とすることができれば、少しは余裕を持って働くことができます。そうでなければ、これから更に年老いてから仕事が変わる度に未経験で、どんどん単純な作業をせざるを得ないのです。正直、これはキツイことです。殊勝なことを言ってはいても、別に艱難辛苦を望んではいないのです。
そして「仕事の経験」以上に職場や仕事内容が変わっても、ずっと持ち運べる「仕事に対する考え方/労働観」の様なものを醸成していきたいと考えているのです。今までの「昇進、昇格する」「役職に就く」「給料を上げる」「仕事を通じて存在を示す」といった野心/邪心?を背景としたものではなく、いわば「老いてからの労働観」といったものです。
今はまだアウトラインも見えてきませんが、無理をして「こういうものだ」とせっかちに決めつけてはならないものだと思っています。だんだんと姿が見えてくるのを楽しみたいと思っているのです。もしかたら、若い頃とはちがった野心に満ちたものかも知れません。
やがて、神さまに「おまえはもう働くことをやめなさい」と言われたら、いつでもそのタイミングで「きちんと終わらせる」ことができる様にしておきたいという訳です。例え「次のこと」が何もないとしても。何だか贅沢な願いだなぁ。
さてさて、その前にずるずると引き延ばしていた『夏野菜の残りの種まき』を「きちんと終わらせる」ことにしますかね。