今日(5/2)はこの会社に入って初めて「有給」を取得して、休みを取っています。とは言っても、連休明けに締切の仕事があって、丁度1日分「間に合わない」ので、連休中一日は出社しなければならなくなりました。
「無理なものはムリ」と腹を括って休んでしまうのもアリ?かと思いますが、私の作業が終わったところから始まるプロセスが幾つもあって、いろんな人に迷惑を掛ける訳にはいかないのです。「作業が多過ぎる」だのなんだの言い訳はあるにせよ、連休明けにいきなり「ゴメンナサイ」などと頭を下げるのもイヤですしね。
最近、この世の中に「正解」なるものは存在するのか?と思うことが多々あります。勿論、数字を扱う世界には「正解」がある訳ですが、いわゆる「意思決定」の結果には「正解」は無い様に思うのです。
その理由は三つあって、先ず一つ目は「時間が立たないと分からない」ということです。短期的には、あのとき「こうする」と決めて本当によかったなぁ、などと考えたりしますが、それがしばらく経って、場合によっては数年も経ってから、「あんなことしなければよかった」に変わることもしばしば起きます。
逆も然りで、当時は「失敗したぁ!」などと凹むものの、しばらくしてその意思決定が吉と出るということもあります。だから、自分で決めたことには「正解」も「不正解」もなく、「ただそれだけ」なんだろうなと考えるに至った訳です。
二つ目は「視点の違いで何とでも解釈できる」ということです。例えば、会社で新しい事業にチャレンジすべく「それ、やりたいです」と果敢に立候補したとします。ところが結果としてその事業は上手くいかず、何年かして事業は畳まれ、その後自分はまったく望みもしない仕事にアサインされてしまった。
そんなとき、「あれは失敗だったな」と思うのか、「貴重な経験をすることができたな」と思うのかによって、まったく自分が下した意思決定への評価が変わってしまいます。意思決定に際して、何を期待していたのか、何を背負っていたのかにもよって、解釈も異なるでしょうから、何でもかんでも「ポジティブ」に考えるということもできません。この点でも、分で決めたことには「正解」も「不正解」もなく、「ただそれだけ」なんだと思うのです。
最後の三つ目は「どこに導かれても大差はない」ということです。国家の行く末を決める様な意思決定であったり、直接に生死に関わる意思決定でもない限り、私なんぞが行なう意思決定など、それがもたらす結果は大して変わらないなと思う様になりましたよ、特に最近は。
とは言っても「結果に大した違いはない」からと言って、いい加減に決めるのでは面白くありません。それなりに「納得」して意思決定をするのが大事です。だって「何かを決められる」というのは、ただそれだけでウレシイことですからね。
まぁ、こんなことを考えるというのは「それでいいんだよ」と、「失敗を自覚する痛み」をなだめているだけかも知れませんけどね。
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それで、連休中の出社をいつにするのか、ううん、悩ましいところです。決して「正解」はないんでしょうけれど。