何百年、何千年という昔の書物の中に、今も変わらぬ「人の心」や「振る舞い」、「世の理」を見つけることができます。鴨長明さんが「方丈記」を書いたのが建暦2年(1212年)で、今から811年も昔のことです。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。(鴨長明:方丈記の冒頭)
時は常に流れ続けて「同じ時」というのはないけれど、流れがなくて淀んだところにはひと時ながらもいろんなことが起きるものだな。けれど、それにしたって一瞬のことなんだよね、世の中は無常なものだな。などと勝手に解釈をしてみます。
所詮人は流れもなく安定した「淀み」でしか生きられませんが、そこでは時間の経過と共に、すべてのものが「固定してしまう」ことになります。これが退屈程度で済めば「マンネリ」と笑ってやり過ごすことができますが、時には「小さな場所で大騒ぎ」となり、ヒドいことが起きたりします。何も特別のことではなく、当たり前のこと。
再就職したり、雇用延長したりすると、その人の労働に対して望まれるものが、それまでよりもずっと小さくなります。勿論、ビジネス戦闘力も低下しているので、できることもずっと小さくなります。
すると、どうしてもそこでは集団も個人も「淀む」ことになってしまう様に思うのです。それに、実際のところ、そういう立場での仕事って、そんなに忙しくはないんですよ。それも「淀み」を生み出す要因だったります。忙しい人、ごめんなさい。
「何でも自分でやるんだよ」というのも辛いかも知れませんが、「これだけやっておいて」というのはそれ以上に辛いことですよね。しかも、時にはそんな状態の人ばかりが集まった集団で長時間を過ごす。どこにも広がらず、大したことも起きないし、起こせない。そこではいろんなことが「淀んで」「煮詰まって」「沈殿して」「苛立ちが満ちて」「沈黙する」。そして、それを受け入れる。
まぁ、予想外の「新しくて、難しい戦いに突入」ということです。過去のことを考えてもしょうがないので、戦場をここに定めるということになります。とは言っても、拘束された時間の間、ずっと脳死して「淀み」にハマっているというのも随分と退屈ですしね。
それで、この「淀み」が生活全般を侵食する前に何とか食い止めねばなりません。つまり、自分の頭の中に「流れ」を作る。学ぶ、生活を固定化しない、(たまに)人と会う、何かを始める…とにかく「何かしている」ということが唯一の対策だと私は思っています。まぁ、「淀み」にどっぷりハマるというのも有りかも知れませんけれど。
もはや「成果」を求めて「何かをする」ということに自分を追い込むのもシンドイので、毎度のことながら「脱力」して、「何かをしている」ことを楽しむということになります。そんなことをしている中に、これから先もずっと楽しむことができるものと「運命の出会い」があるかも知れませんし…