私が中学生だった1970年代の後半、40年前なんていうと、とてつもない昔の話でした。それは1940年代のことで、まるでその頃の自分とは一切のつながりを持たぬ切り離されたものだったのです。音楽も映画も、まったく違ったものでしたから。
ところが、2024年の今、40年前と言えば1984年で、まるで「ついこの間」の様に思えるのです。それに、音楽も映画も、今鑑賞しても何一つ「古い」とは思えません。それどころか、この頃までに「すべてのよきもの」は作り上げられてしまったかの様にすら思うのです。
あの頃、あんなに素晴らしいものを生み出し続けた世界は、今は一体どうしてしまったのでしょう。ただの回顧主義ですかね。
さて、以前にも同様のことを書いたのですが、ここしばらく「無意味に喋る」高齢者に辟易とすることが続いています。各所の受付、レジで、後ろに順番待ちをしている人がいるのに、どうでもいいことを延々喋り続ける。これは一体何が起きているのでしょう。
普段の生活の中で、人との触れ合いがなくて「人恋しい」「かまって欲しい」になっているのかも知れませんが、状況はわきまえて欲しいものです。これ、若い人にはあり得ない行動なので、「老人になると発症する病」なのかも知れません。
医院の精算のときに、延々と自分の最近の体調を喋り続けるおじいさんがいて、後ろに順番待ちの人がいるというのに、お金を払った後も受付の女性相手にうれしそうに話し続けます。こういうの「受付の人」が「後ろにお待ちの方がいますので」って言わなきゃいけないと思うのですが、最近は相手にキレられるのが怖いのか、そのままに放置してしまいます。困ったな。
レジで小銭を出すのに延々と時間を掛け、挙句の果てに「あらいやだ、細かいの足りないじゃない、確かにあったのにね」などと喋り続け、なかなかに支払いをしないおばあさんがいて、レジには順番待ちの行列ができ、不愉快の思念が周囲に渦巻きます。
図書館の受付でリクエストを出した本が都内では取り寄せられないと言われ、「市内にないの?都内にないの?どこにもないの?」などと延々と駄々をこね、更には「何故ないの?これから先、購入しないの?」などと喋り続けるおばあさん。
これもまた、受付の人が「順番を待っている人がいます」などとは言ってくれません。後ろに並んでしまった私は、いつ果てるかもしれぬ「問答」を長々と聞かされることになりました。もう少しで「急いでいるんですけどね…」と言うところでしたよ。
いずれは自分も「こういうもの」になってしまうかも知れず、未来の自分を慮って、「年寄りとはこういうもの」と静かに受け入れることにしています。けれど、これから社会の高齢化が更に進み、こういうことが大量に発生したら、社会というのは随分とスローダウンするのでしょうね。
もたもたしているけれど、年寄りがしゃべり続ける社会、自分も年寄りの一員ですけれど、うんざりしてしまいます。目指せ、寡黙な年寄りです。
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庭のカボスの実生の苗がすくすくと育ち、それまでの鉢では可哀想になってきました。それで先週、一回り大きな鉢に移植したのですが、驚くことに小さな鉢の中身は殆どが「根」だったのです。「ごめんよ、狭かったね」と言って、大きな鉢に植え替えました。葉に付いた数匹のアゲハ蝶の幼虫も、どこかに落ちてしまわない様に慎重に。