今年の冬至は12/21です。そう、もう今週末なんですね。この日を過ぎると「米粒一つずつ日が長くなって」いきます。昔の人は上手いことを言ったものです。今だと「これ以降は毎日約XX分ずつ日没の時間が遅くなっていきます」なんてことになるのでしょうが、これだと風情も何もありません。ちなみに「米粒」の向きはどっちなんでしょうね。縦?横?
ようつべや、サブスクの配信サービスが出来たことで、音楽の聴き方も随分と変わってしまいました。昔は小遣いをためて、数ヶ月に一枚だけ、やっとの思いでレコードを買って、これを本当に穴が開く程に聞き込んだものです。そんな何枚、何十枚ものアルバムたちが、私の血となり、肉となっているのです。
それが、今ではお金を掛けずとも、多少の広告を我慢すれば、世の中に生まれ、記録された音楽のほとんどすべてを聴くことができる様になりました。勿論、これは素晴らしいことなのですが、それと引き換えに「丁寧に音楽を聴く」ことが無くなってしまったのです。
これ、音楽だけに限らず、何につけても、私たちは「丁寧に」味わうことを放棄してしまった様に思うのです。それはインターネットのせいでも、サブスクのサービスのせいでも、ようつべのせいでもなく、すべて、自分の「接し方」の問題だったりします。
何かに急かされるが如くに新しい刺激、新しい楽しみを追いかけ続けるが故に、結局は乱暴に表面をなぞり続けるのが、もはや習慣になってしまっているのです。気付けば、配信サービスで観ているドラマなんか、どんどんシーンを飛ばして、ストーリーの帰結部だけを観ていたりします。更にはネットで「ネタバレ」情報を眺める始末で、それで観るのを止めてしまったりすることもあるのです。
昔、「何でも短縮、要約してしまう遊び」というのがあって、例えば、桃太郎は「乱暴者が手下と共に敵対組織を壊滅させる話」、浦島太郎は「うっかり調子に乗って、大事なものをすべて失う話」といった感じで、仲間内で馬鹿馬鹿しい暇つぶしをしたものです。何十年も経って、結局はこれを一人でやっている訳です。まったく成長がありません。
それで、今更、昔の様に「丁寧に」目の前のものをじっくりと味わうことができるのかを、試してみたいと思っているのです。急がない、はしょらない、すぐに捨てない、エラそうに決めつけない。結局は子供の頃のスタイルに戻っていくのです。それは、やがて血となり、肉となり、程なく「灰になる」んですけどね。
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寒くなってきて、我家の「お鍋」率も急上昇中です。それで、毎回悩むのが「〆(しめ)」なのです。ここしばらくは「餅」が定番化していたのですが、さすがに何回も続いて飽きてきたのと、塩味系のお鍋には合わない感じがして、最近は「うどん」にしているのです。明日の晩は、我家は「お鍋」だそうです。何味で、〆は何でしょうね。