ようやく桜が咲きました。MLBも、プロ野球も始まったし、いよいよ冬眠期間も終わりです。とてもうれしいのですが、これまで「寒いからさぁ…」なんて言って後延ばしにしていたことに、いよいよきちんと向き合わねばなりません。

午前中に「明日から本気出すリスト」を書き出してみたのですが、少しくらくらっとしてしまいました。これ、ぐずぐずしている中にきっと「暑いからさぁ…」なんて言い出すのです。一つずつ、先ずは着手が大事です。

さて、宇宙の万物は「終わりがあって、始まりがある」と「始まったものには、終わりがある」を繰り返しています。生き物の場合にはいつか「始まりのない終わり」というのが必ず来ますけどね。けれど、それにしたって「その人がいなくなってからの世界」というのが始まります。

当たり前ですが、楽しいことには「終わりがなければいいなぁ」と思う一方で、イヤなことは「早く終わらないかなぁ」と思う訳です。最近は、これだけではなく、余りに目の前のことの対処に追い詰められて「気付けば終わっていた」というのもあることに気付きました。

私的には「楽しい」とか「イヤ」とか思う暇すらなく、「気付けば終わっていた」という時間の過ごし方がBESTだったりします。こんな時間を過ごさせてくれるものは、私にとっては唯一「仕事」だったりします。

寂しい人生? いいじゃないですか、それにそういう時間があるからこそ「趣味」や「休息」が輝くんですよ。「趣味」と「休息」ばっかりしていると疲れちゃいますからね。昔、長い休暇を取った後に出社して、「よかった、オレには会社があって」と思いましたもの。

今思えば、平坦な私のこれまでの人生においても「終わり」を願うことというのは幾つかあって、当たり前ですが、そのときというのは「不幸」だった訳です。「不幸」って言っても、他人から見れば、贅沢で甘ったれた「不幸」なんですけど、本人にとっては頭の中がそれで満たされてしまい、ひたすらにその状況が終わることを願うことになります。

神さまがその願いを小耳にはさんでくれた場合には、勝手に事態が動いて「終わり」になります。それなりに時間が掛かる場合もあるので、しばらくは様子を見るのも妙手です。「この状況、終わらねーかなー」と思う内なる自分を、「相棒よ、ちょっと待ってみようぜ」となだめてみる。

私の場合、大体7割くらいは「終わらねーかなー」と思ってから、半年くらいで状況が好転する様に思います。けれど、それは「後になってから聞く」話で、短気な私はそう思ったら、反射的に「終わらせる」に舵をきってしまいます。無力な私にできる「終わらせる」とは、勿論、そこから立ち去ることですけどね。

それで「失敗したぁ」と思ったことは数知れずですが、「終わらせる」を決めた後に、次の「始まり」に備える時間というのはいつだって最高に楽しかったりします。その時間というのが私にとって、一番「無敵なとき」で、普段なら面倒なことも、難しい関門もヘラヘラと乗り越えることができるのです。本能的に「ヤバイぞ、次に備えよ」と脳内に変な物質が出ているんでしょうね。

兎にも角にも「終わり」を願うというのは、不幸なことには違いがありません。「自分の意識」の問題なのかも知れませんが、誰が見たって「残酷な偶然」の中にポーンと自分が放り込まれてしまうことは、世の中、少なくはないのです。

そんなときはひらすらに「終わり」を願って凹むだけでなく、それは即ち「始まり」が近くでスタンバイしているんだよ、なんて呑気に考えるのがよろしいようで。それは何につけてもね。

*****
午後にエアコンを新しいものに交換しました。急に暖かくなってしまったので、しばらくは「エアコン」いらずなんでしょうけどね。暑くなったら、頼むぜ。

***
ブログランキングに参加しています。よろしければポチっとお願いします。やる気がでます。