気付けばクリスマスもすぐ目の前で、プレゼントの準備をしなければなりません。最近は専らAmazonでポチるのですが、実物を見たり、触ったりしていないので、果たして「よい品物」であったのか、「サイズが合っていたのか」が分かりません。
そんなことを考えてしまうと、最後は「ギフトカード」を選択してしまったりします。若い人たちは、その方がウレシイみたいですし。好きなものを買って下さいな。
さて、MLBの大谷選手がドジャースと10年/7億ドル(日本円で1,015億円)の契約を結んだそうです。ここまで行くと「上」なんて考える気にもなりません。私がほんの僅かでも負担する訳でもありませんし、「来年も活躍して、日本の年寄りを楽しませてね」と思うだけです。
人間なんて勝手なもので、自分がどれだけの価値を生み出せるのかをさておいて、すぐに「不公平だ」とか「ズルい」とか「自分は損をしている」なんて考えてしまいます。こういう感情というのは、近く、つまり「似通った環境にいて、見知ったもの」に対してのみ発生するという救われないものだったりします。
「下」と自分が考えるものに対しては、「優越感」とか(今の自分に対する)「満足感」みたいなものを覚えたりするのですが、これもまた「似通った環境にいて、見知ったもの」にのみ反応することになっています。哀れな話です。
もっとも強烈に感情が揺れ動くのが、恐らく「横」と勝手に自分が思っていたものにおける変化に対してです。「横」によいことがあると、「嫉み」とか「妬み」なんて、一番醜くて、一番強烈な呪いを押さえることなく吐き出してしまいます。恐ろしや。
それで、「上」も「下」も「横」も関知せずに、自分の「前」と「後ろ」だけを見たり、考えたりすることが年寄りには、何よりも大事なんだろうなと思う訳です。(すげぇ、当たり前のことを言っていて、かなり恥ずかしい)
実際のところ、自分に変えられるものは「自分」と「未来」だけなので、もはや体力的にも、知力的にも、持ち時間的にも多くを見込めない年寄りにとっては、「上」「下」「横」に構っていられる余裕など本当はありません。
ちなみに「後ろ」に関しては、私の場合、「後悔」と「恥」と「謝罪の気持ち」でパンパンに膨れ上がっているので、都合よく、そっとページを閉じるという身勝手さを始終発動させてしまいます。(いつか、その報いと罰をきっちりと受けることでしょうけれど)
それで、そんなにキレイさっぱりと「嫉み」「妬み」「優越」といった「一文の得にもならない」感情を無くしたりできませんが、芽生えたときには、「そういうの、どうでもいいかな」なんて小さく呟いて、ポイっと捨ててしまう。すると、これが実に気分がいいことを知りました。これからは「ポイ捨て」の人生ですよ。
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最近、「これ、無くなってたな」と思ってする買物が「繰り返し」になっていることがあって、頭の状態を少し疑っています。タバスコなんて4本もあって、中華調味料(袋に入った顆粒のもの)も封を切っていないものが3袋ストックされていたりします。
何で、毎度毎度売り場にいくと、「これ、無くなってたな」って思ってしまうのでしょう。こんなこと、昔はなかったのにな。一体、どうしたものやら。