今日(10/21)は土曜日なので、仕事はお休みです。早くも新しい生活スタイルに適応した愛猫が、7時過ぎに私の顔をじっと見つめて「そろそろ家を出ないといけませんよ」と話し掛けてきました。今日と明日は家にいることを伝え、「仲良くしてね」とお願いをしました。了解!だそうです。

朝の通勤電車、見事に「紙の新聞」を読む人が絶滅していました。そんな中、昨日の話ですが、私よりも少し年上(65歳程度か)の方がそれなりに混んだ車両に乗り込んできて、珍しく「紙の新聞」を読み始めたのです。これが、周囲の人に不快をまき散らしたのです。

先ずはガサガサという音がずっとしていて、一応、新聞を折りたたんで短冊の様にして読んでいたのですが、前方の人の頭に何度もこれが被さってしまい、振り払われる始末です。しかも自分が新聞を読むスペースを確保するために、後方から他の乗客が乗ってきても、少しも奥に進まないので、その人の後ろだけぎゅうぎゅう詰めの状態です。

流石にその人も状況を察したのか、10分程度で新聞を読むことを諦めたのですが、これって「新しい迷惑」なんだなと私は思ったりしたのです。勿論、今よりももっと電車が混み合っていた頃、誰もが「日経」を読まねばならないという同調圧力に苦しめられていた頃、同じ迷惑が多発していたので、正確には「新しくて古い迷惑」です。

私も何度も新聞を頭の上に広げられたことがあり、逆のことも何度となくしてしまい、その度に「ちっ」とか舌打ちをされたものです。けれど、ある時から「紙の新聞」を電車で読む習慣が突然に絶滅し、それと同時にこの迷惑も忘れ去られていたのです。

こういう「昔は当たり前だった」「多少のことは『おあいこさま』」みたいなことが、時代が大きく変わった今も通用すると考えるのはとても危険な訳です。よく言われる「飲み会」への半強制的な出席とか、同じ皿の料理を取り分けずに直接みんなで食べるとか、そんなこと、許可を得るまでもなく今は「起き得ないこと」なのです。

だから、そんな申し入れをされること自体が「新しい迷惑」という訳です。いきなり「お鍋、直箸(じかばし)でいいよね」なんて、その場で誰かに言われても、「困ります」なんて言えませんからね。結局、誰も鍋が食べられなくなってしまいます。どんどん具材が煮詰まってしまいます。

私は「社会はどんどんよくなっている」派なので、昔に比べて今は相当に生きやすくなっている様に思っています。けれど、体と心に沁みついた慣習や常識といったものが、既に社会から絶滅している、淘汰されていることを知らずに、うっかりと「新しい迷惑」を生み出してしまうことは十分に起き得るのです。

仕事や集まりの場で、こういった「新しい迷惑」を年配者が傍若無人にしてしまうこと、それこそが「老害」なんでしょうね。これからは一歩下がって、若い人たちの振る舞いを見習う方がよさそうです。いつだって、社会を先に進めていくのは若い人たちのハズなのですから。


それで、随分前に日経を読まなくなった私なのですが、それからも何も困ったことは起きていません。誰も読んでいない?ので、「今朝の日経の記事読んだ?」などと試されることも、もはやありませんしね。それに、そんなことを相手に聞くのは「新しい迷惑」かも知れません。

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