10年以上前のことですが、仲がよかった会社の同期に「これからはいろんなところで、お互いのことを褒めることにしようぜ」と言われたことがあって、何だかおかしくて大笑いしたことがあります。会社で誰かと話している際に「そう言えば、XXX、最近頑張ってるよね」とか「XXXの作った資料、面白くってさ」などと言うことにするのだそうです。嘘はダメですけどね。
そうすると、それがいろいろと周囲に伝わっていき、いつの間にか「XXXはいい奴らしい」「XXXはスゴイらしい」というイメージが出来上がる。すると、何かにつけ会社で生きやすくなる、という素晴らしい作戦?です。
そのときは笑い話で終わってしまいましたが、今思えば、これ、結構によい試みだったと思います。「褒められた人」の評判が上がるだけでなく、褒めた人に対しても「あいつ、他人のよいところを素直に認められる奴だな」と周囲がほっこりします。
会社の中だけでなく、いろんな場所で、これ、楽しいことが増えそうな試みに思います。どこかで、仲の良い誰かと組んでやってみたいと思います。余り気持ち悪いことにことにならない様に注意しながら。
最近、いろいろなところで「自己肯定感を上げる」ことの重要性が言われています。何をするにしても、自分のことを大事にする、自分を愛するところから始めましょう!という訳です。これは「褒める」というよりも「赦す」という感じでしょうか。この考え方に関しては、私は100%の合意。
とかくこれまで、自分に対する期待が高過ぎて、現実とのギャップに苦しむ。それで「大嫌いな自分」だったり「ダメな自分」を作り上げては、モチベーションを下げたり、自己憐憫に逃げ込んだりする、というのが私たちの世代あたりでは「普通の考え方」だった様に思います。
それで、具体的に「自己肯定」することを考えてみると、これが意外に難しかったりします。先ず、自己肯定感には「社会的」なものと「絶対的」なものがある!というところからスタートです。
社会的自己肯定感とは他者との比較、他者からの評価を根拠として自分の中で醸成されるもので、「オレは営業部の中で最も売上が多い」「オレは部長だ」といったものです。これは自分が病気になったり、もっと優秀な人が登場したり、退職・転職するだけで、簡単に揺らいでしまったりします。
一方で、絶対的な自己肯定感とは、例え何が起きても、世間的には最低最悪の状態にあっても、「それでも自分は価値がある、愛するに値する」と思えることです。それで大事なのは「絶対的な自己肯定感」ということになります。
それで、「自己肯定」の何が難しいかと言えば、「絶対的な自己肯定感」とは具体的な何に依拠してそう思えるのかということなのです。何か項目を上げていくと、どうしても「他者との比較」というのが付き纏ってきます。だから、「XXXという点で自分を愛することができる」という発想ではダメだということになります。
ということは「ダメでもいいじゃん、オレはオレのこと好きだよ」とヘラヘラしちゃうのが「絶対的な自己肯定感」だと、私は思うに至った訳です。確かにそう思うと、随分と気が楽になります。「それじゃ、ぐだぐだじゃねーかよ」なんて言わずに、先ずは自分が自分の最大の味方になってあげる。いいじゃないですか。
ようつべに「G線上のアリア」とか「パッヘンベルのカノン」とか「Summer(久石譲さん)」といった永遠の名曲の長時間演奏動画というのがあります。これ、1時間、中には10時間に渡り、広告なしに延々と同じ曲が繰り返されるだけの動画(というか静止画)ですが、何か作業をしているときには最適なBGMです。何か脳の中に「よきもの」が分泌されるんですかね。