本当にひどい目にあった人たちは静かな表情をしているのに、自分には何も起きていないのにも関わらず「許せないこと」を見つけた人たちが怒声をあげて、鬼の形相をしている映像をニュースでみることがあります。

本当の怒りの原因は、標的にロックオンしたものにはなく、今の自分が感じている「不公平」、「自分だけ損をしている」、「自分は尊重されていない」といった心の底に沈殿したものにあるのかも知れません。そうでなくとも老人はキレやすいのです。それは本当に「怒るべきこと」なのか、よーく考えねば。

ずっと家にいて「晴耕雨読」の毎日を過ごすというのは相当に魅力的ですが、そうもいきません。人と関わると、それが例えよく知っている人たちであろうと「イヤ」な部分、「嫌い」な部分を多少なりとも見つけてしまいます。

「何でそんな皮肉な言い方をするんだろう」「おせっかいをせずに、少し黙っていればいいのに」「この間約束したこと、全部忘れているんだな」「誰も関心がないことを長々と話されてもな」言葉には出しませんが、いろいろな思いが頭をよぎります。

それで、そういう部分というのは、結局は「自分」の中にあって、普段「自分」がやっていることを他人が演じているのを見せられて「ウンザリ」しているのです。どこにでも「自分」はいて、それを都度都度発見するという訳です。

これからの時間、残り30年なのか、20年なのか、はたまたもっと短いのか分かりませんが、大して人に会うこともないのです。そして、もはや自分の芸風を変えることもできません(開き直る)。他人の振る舞いにウンザリするときには「しょうがねぇなぁ」とばかりに緩くかわして、自分は少し離れたところでニコニコとしている、そんな感じがよさそうな。

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