物欲の枯れない私としては「何となく欲しいものリスト」なら、100行くらいすぐに書けるのですが、「死ぬまでにやりたいこと」となると、さっぱり頭に浮かびません。
以前のエントリで「65歳で年金をもらうまでにやりたいこと」を3つ書いた(資格取得、庭、ピアノ)のですが、「死ぬまで」というスパンでは「やりたいこと」を考えたことはありません。もし準備したとしても、死を目前にして「やりたいことリスト」の10%も出来ていなかったら、相当に無念で、死ぬに死ねずに長生きをしてしまいそうです。
という訳でネット上に公開されている多くの人の「死ぬまでにやりたいこと」を沢山読んでみました。本当は「死ぬまでにやりたいこと」のアンケート回答などをご紹介したかったのですが、これは回答が多岐にわたることから、「そういうことね」などと新しい発見がある「回答の集計」がなされたものがありませんでした。そりゃそうですよね、「死ぬまでにやりたいこと」なんて、とても個人的な事柄なのですから。「旅行」とか「昔の知り合いに会う」とか回答されても、「大げさな、早く行っておいでよ」となってしまいます。
30人くらいの方の「死ぬまでにやりたいことリスト」を読みましたが、それこそ「家事リスト」の様な慎ましいもの、ほぼ「遺言書」の様なもの、「若い人しか実現できない」もの、「まるで実現性のない」もの…. 人それぞれに「やり残したくないこと」が沢山あることが分かりました。世界は「やりたい」という「鯛」でいっぱいでした。
ちなみに多くの人が「旅行編」「なりたい自分編」「したい仕事編」などにジャンル分けをしてリストアップしています。何でも「死ぬまでにやりたいことリスト」のガイドブックまで出されている様子です。完全自由形で、ルーズなお遊び的なブームかと思っていたら、結構、みんな真剣だったのです。
他人の「死ぬまでにやりたいことリスト」をお腹いっぱい読んだ私は、このリストに記される項目が大きく三つに大別されることを知ったのです。エラそうです。
先ずは最後まで「自分に経験」を与えたいという好奇心だったり探求心に基づくもの、次は「こういう自分でありたい」という健康や幸せを願うもの、そして最後は「気掛かりなこと」に決着をつけておきたいという使命感に基づくものです。
外国の方や日本人でも若い方は「自分に与えたい経験」を書く方が多くて、映画になった「最高の人生の見つけ方(2007年公開)」でもリスト内容に書かれているものの多くはこれでした。エベレストに登るとか、世界一の美人にキスするとかいうものです。まぁ、映画ですからね、ここに「カミさんに内緒の借金を返す」なんて世知辛いものはない訳です。
日本人、特に中高年以降の方が書くリストには一番最後の「使命感に基づくもの」も多い様子で、「やりたいことリスト」というよりも「終活のto do list」といった佇まいです。断捨離をするとか、遺書を書くとかいうものです。最近の終活に関するアンケートの一部においては「死ぬまでにやりたいことには、自分がしたいことよりも遺された家族の負担にならないようにしたい」といった項目に票が集まったとされています。
「リストにする」ことには大変な魔力がある様に思います。目の前が真っ暗になるくらいの大量の仕事を抱えていても、それをリストにして書き出してしまうと、何となくやり終えることができる様に思ってしまいます。というか、リストにした時点で、「今日は帰ってもいいや」という気分になってしまいます。本当は帰ってよい訳がありません。
私など、それで何回も痛い目にあって来ましたが、毎度、リストの罠にはまるのです。「どうしたの?できてないの?」なんて言われて、「やることは整理したんですがね」と今できる最大の努力アピールをしてしまいます。そう、リストを作ることで満足して早く帰ったりするから、いつも何かを終えるのに一日が足りないのです。
それで、私の「死ぬまでにやりたいことリスト」ですが、『死ぬまでに「死ぬまでにやりたいことリスト」を作る』ということでご勘弁を。