未だ、周囲にインフルエンザに罹患した人がまったくいません。以前のエントリでそんなことを書いたのですが、その後も家族やご近所、職場に至るまで、懸命にそれらしき人を探しているのですが、見つかりません。本当に流行っているのかな。
「終わりよければすべてよし」、この言葉の語源はシェークスピアさん(All’s well that ends well)だそうですが、流石の人間観察力です。シェークスピアさんを褒めるとか、どれだけ上から目線なんでしょう。昔、何だか分からずに誰かの「書」の展覧会に連れていかれて、会場で「上手いなぁ」と連発して、一緒に行った人に「頼むから黙っていてくれ」と言われたことを思い出しました。いいじゃんね。
どんなに素晴らしい人生を送ってきても、ニンゲンというのは「現時点」でしか、自分の幸せを計れない生き物の様に思うのです。「昔はよかったね」とニコニコと過ぎた日々を思い出せるのは、今も幸せな人の特権なのです。苦しい境地に陥ってしまったら、ただただ「苦しい」だけで、「過去の幸せな日々」など思い出さない方がずっとマシです。
勿論、万物にとっての「終わり」とは「最期」のときのことなので、ここを如何に「幸せ」に迎えることができるかで、人生の満足度というのは大きく変わってくるのかも知れません。家から遠く離れた病院のベッドで身動きも取れず、混濁した意識の下、注射の痛みだけが外部からの刺激で、ぼんやりと「早く終わりにならないかな」なんて考える。これでは、せっかくの「これまで」が台無しです。
最近、ときどき「終わりよければすべてよし」を考えます。もはや人生の2/3は確実に経過してしまったのです。残りの1/3を、誰とも比べることなく、自分なりに生きて、最期は「延命治療お断り」で、病気や老いに従い、病気が傷みをもたらすならば、それもまた「自分の一部」として甘受する。
そして、いよいよというときに「終わりよければすべてよし、これまで過ごしてきた日々は何もかもが素晴らしかったなぁ」と思って、にんまりしてしまう。こんな風にはいかないものですかね。帰りの電車の中、座席に座って、うとうとしながら、そんなことを考えました。
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愛猫の誕生日が近いので、いろいろと「おやつ」をAmazonでポチっては、好きなものを選んでもらっています。今のところはフリーズドライの「マグロ」が一番のお気に入りの様子です。よしよし、誕生日にはたっくさんプレゼントするからね。