新年、出社初日から大忙しで、早くもグッタリです。水曜日が締切の仕事が沢山あって、そのことは年末の時点で分かっていたのですが、そのときは「しっかり休んでからフレッシュな頭で片付ける!」などと自分を甘やかしたのです。あの日の自分のバカさ加減に頭がクラクラしてしまいます。
よく「選択を誤った」なんて言い方をしますが、実は「選択」自体には、誤りも正解もないんだと62歳も終わりかけた「今」気付きました。
「選択肢」があって、はじめて「選択」ができるのですが、そもそも備えをしていなければ、よい選択肢を自分に用意してあげられません。あたり前すぎて、書いていて眩暈がします。だから、「選択」をした結果、思いどおりにならなったとしたら、それは「選択を誤った」のではなく「よい選択肢を準備できなかった」ことを悔いるべきと思うのです。
次に「選択」した後に、それに連なることが「誤り」か、「正解」かというのは、「選択後」の自分の振る舞いに掛かっているので、こちらも「選択を誤った」のではなく、「自分のパフォーマンスが十分に発揮できなかった」ことが失意を覚える原因でありましょう。
つまり、何かを叶えたい、自分が望む生き方をしたいと思うのであれば、然るべき「選択」のときまでに、きっちりと魅力的な「選択肢」を自分のために用意してあげて、「選択」の後には、それを「正解とすべく」精進を重ねる、それが望ましい「あり方」ということになります。
それで、62歳の私であっても、これから65歳になって、70歳になって、75歳になっても、きっと幾度となく「選択」のタイミングがやって来ます。そのときに、今頃やっと気付いた、この「教訓」「世の習い」を活かしたいものだと、今更ながらに思うのです。
これから先、未来の自分に、大した「選択肢」など用意できませんが、できることが何もない訳ではありません。先ずは「健康である」こと。ただこれだけで「できること」の選択肢が随分と広がります。
次に、今やっていることを『経験』にすること。これ、実はとても大切で、よく老後の仕事は「給料が安くて、つまらない」などと言いますが、普通に考えてみれば多くの仕事が「未経験歓迎」で募集されていた仕事なんですから、仕方のないことなのです。
幾つになっても履歴書に「xx業務に5年間従事」なんて書けるものがあったら、それによって選ぶことができる未来が格段に増えるハズです。幾つであろうとも、未来の自分にプレゼントしてあげられる「経験」を貯え続ける、とてもよい感じがします。
もっと若い中に、こんな「当たり前」のことに気付いていたらなぁと思ったりするのですが、あの頃はあの頃なりに「できるだけのこと」はしていたのですよ、きっと。今となって「悔い」もなく「反省」もなく。
*****
お昼に食べるものを買いに14時頃にコンビニに行ったのですが、何と、おにぎりも、お弁当も、おかずパンも、何もかもがありませんでした。仕方がないので、肉まんとチョココロネを買って、ランチにしました。まったく満たされません。でもね、きっと、これで一年分の災いをすべて消化できたことでしょう。前向きで行くぜ。