今日は昼食を食べてから、お墓参りに行ってきました。ぽかぽかと暖かく、半袖でも大丈夫な程。日曜日だと言うのに、お墓にはほとんど人がおらず、静かに父母の墓石の前で手を合わせることができました。17時前には自宅に戻ってきましたが、この時間だと早くも暗くなっているんですね。
さて、基本的にはすべて昔のことは忘れかけています。特に社会に出て、働き始めるまでのことは。学生の頃の毎日は、どこかの誰かの回想を、他人の目で「へぇー」とか思いながら眺めている様に思えます。きっと楽しい日々であったことでしょう。
それで、会社に入って働き始めて、それ以来、やっていることや会社は変わったものの、ずっと働いています。今でも「困ったなぁ」とか「イヤだなぁ」とか「面倒だなぁ」と思わない日などなく、これはきっと、「働く」ということには必ずセットで付いてくるものなのでしょう。
ハンバーガーセットのポテトとか、定食屋さんのランチの小さな冷奴みたいなものに違いありません。別に頼んだ訳じゃないんだけどね。目の前にあるから食べてしまいますが、特別な感謝もなく。(申し訳ないっ!)
それで、年寄り仕事を黙々とこなす今よりも、「現役」で頑張っていたころの方が遥かにそういう「ネガティブな感情」に見舞われることが多かったに違いないのですが、よくもまぁ、35年以上もそんな毎日を凌いでいたなぁとつくづく思うのです。今だったら、即、「辞めさせてもらいます」って言っちゃう様なことも沢山あった気がします。
では、一体、何故「そんな状態」でも毎日をたんたんと過ごせたのか。(時には「たんたん」ではなかったけどね) ぼーっと考えてみると、先ずは若い頃というのは「傷みに強い」ということがありそうです。「あ痛たた」でも大丈夫、みたいな感じだったのですよ、きっと昔は。
それから「ずっと引きずっていられる程ヒマじゃなかった」ということもありそうです。仕事上で忙しいというよりも、家庭のことであったり、借金のことであったり、趣味や関心のあることであったりと、とにかく周囲に渦巻くものが多過ぎて「それどころじゃなかった」のです。
さらには「まだまだ続くぜ、毎日は」という心構えもあった様な気がします。こんなところで凹んでいられないよ、まだまだ先は長いんだしさという「諦観」「悟りの境地」にいたのかも知れません。サラリーマン生活が、宗教的な体験を生み出していたということもあり得ます。
本当に、若い頃はよくやってたよね。私だけでなく、みんな揃って。
それで、「老後の仕事」をしている今の方が余程「ネガティブな感情」に耐性がない様に思うのです。こういうことこそが、「劣化」であり、周囲にとっては「老害」なのでしょう。とかく、年寄りというのは「ひがみやすく」「怒りやすく」なっているのです。箸が転んでも「悪く」捉えてしまいます。
まぁ、とにかく「ネガティブなことを考え始めてるな」と思ったら、脱力です。肩の力を抜いて、飴ちゃんでも口に放り込んで、深呼吸でもする。きっと何とかなるでしょう。実は大したこともしてないしね。勿論、これは仕事の場だけでなく、日常のすべてで同じことです。飴ちゃんは大事ダナ、有難い答えが下りて来ましたよ。
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明日は「有給」でお休みです。平日のお休みというのは結構に貴重で、明日はホームドクターに行って薬を出してもらったり、市役所に粗大ゴミの引取を予約したりします。そうそう、朝のゴミ出しも忘れない様にしなくちゃね。