お留守番がメインの夏休みも、二日目が終わろうとしています。明日は午前中にカミさんを車で病院に連れていきます。明後日もお見舞いに行くねと行ったところ「検査入院なんだから、来なくてよい」とあっさりと却下されてしまいました。

病院の中にはコンビニがあって、喫茶店もあるし、病棟のフロアには自販機もあって、夕方にはコンビニのワゴンが病室を回ったりもします。家にいるより、よっぽど快適かも知れません。

さて、この間読んでいた本の中に「神は正当に報いない」という言葉があって、思わず「そうだよね」と思いました。当たり前ですが、子供の頃には「努力は必ず報われる」と私たちは教えられて育ちました。

更にそういう観念、常識観みたいなものを裏付ける美談?も多く流布していて、ガチガチに外堀を埋められている訳です。「スランプになったら、ひたすらバットを振って、それが唯一のスランプ脱出法だ」といった向きの話です。

それで、結局、「神は正当に報いる」「努力は必ず報われる」みたいな思いが、真面目でいい人を苦しめ続けるのです。上手くいかないときに方向転換がなかなかできずに、ずるずるとガンバリ続けてしまう。

それで「報いる、報いられる」というのは何なのかということです。入試や資格試験のためといったゴールが明確なものであれば、報いる=合格なんでしょうけどね。会社員であれば、昇進、給料といったことになるのでしょう。

いずれにせよ分かり易い。けれど、みんながみんな、努力が報われたりはしません。みんな頑張っていたんだけどね。世界は不平等で出来てるいることを、多くの人は思い知られます。たまにその枠の外側に、「職人」みたいな人もいますけどね。

それでそれで、難しいのは「老後の仕事」です。自営の場合には別の指標を自分に設定するんでしょうけどね。どこかに雇われるとなると、「老後の仕事」では、今までの様な「報われ方」はあり得ません。

幾ら頑張っても、心を込めて働いても昇進もなく、(もともと薄給の)給料も上がらない。そもそも誰も仕事を見ていてくれない、そんなケースが大半と思います。

とは言っても、誰にも、何にも「報われない」というのでは、余程の聖人か、何か罪を贖うみたいな思いを背負っていなければ、働き続けることはできません。へこたれてしまいます。私は「そこから」が老後に働くということの醍醐味だと思っています。

何だか、いろんなことが「ありがたく」なってくるんですよね。「こうやって働ける場所があることがありがたい」「(少なくても)給料をもらえてありがたい」「家族に労われてありがたい」… これが「神が正当に報いる」ってことなんですかね。それとも、雇用側の「思うつぼ」かしらん。どっちでもいいや。

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今日(7/7)も暑かったなぁ。午前中は愛猫と共にエアコンを点けずに過ごして、午後に炎天下に買物にいって、洗車して、選挙に行って… いろいろとやることがあって幸せでした。美味しく夕飯を食べて、しっかり報われました。 

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